是川銀蔵・・・相場師一代(21)大恐慌のあおり

是川銀蔵

銀蔵の大阪伸鉄亜鉛メッキ会社は、昭和に入っても順調な経営を続けていたが、突如大事件が起こる。昭和二年(1927年)3月14日衆議院予算委員会で時の若槻礼次郎内閣の片岡蔵相が、「・・・今日正午頃において、東京渡辺銀行がとうとう破綻しました」と口をすべらしたのである。これは誤報で東京渡辺銀行は休業の予定ではあったがこの日も営業をしており、この蔵相の失言で取り付け騒ぎになり営業できなくなってしまった。これをきっかけに各銀行に預金者が殺到し、大手の銀行も休業に追い込まれる。政府系銀行の台湾銀行も休業に追い込まれた。そして当時三井・三菱と肩を並べていた商社・鈴木書店が倒産してしまうのである。そして取り付け騒ぎを落ち着かせるために政府は緊急対策として、4/22と23を全国の銀行を休業として、三週間の支払い停止令(モラトリム)をを発令した。金融恐慌が始まったのである。

銀蔵の取引していた3つの銀行の内、2つが倒産した。残った1つはトタン・釘で融資してくれた野村銀行だった。そしてトタン・釘で融資を決断してくれた野村銀行の広瀬支店長が人事異動で本社に戻ることになり、銀蔵に「融資の始末をつけてくれんか」と頼みに来たのだ。広瀬支店長には大恩がある。銀蔵は無理をして他から借金をして、野村銀行の融資を返済した。しかし、これが祟った。昭和二年の年末、資金繰りが行き詰まり銀蔵の会社は破綻するのである。銀蔵にしたら何度目かの破綻である。

しかし、債権者会議での席上、債権者たちは「あんたの会社の倒産はあんた一人の責任ではない。これまでの債権は棚上げにするから今後も会社を継続して利益をあげれば債権の返済に向けてもらったらええ」とありがたい申し出だったと、銀蔵は著書で述べている。銀蔵の会社は債権者に渡ったが、社員やパート社員は誰も失業せず、銀蔵だけが会社を去ることになった。子供四人と妻を引き連れ、無一文で大阪から京都の嵐山に移り住むことになる。こうして銀蔵はまた破産の憂き目にあったのである。

恐慌で無一文になった銀蔵はレーニンが主張する資本主義の崩壊について考えるようなる。破綻した銀蔵は京都でどんな生活をするのだろうか。次回「是川銀蔵・・・相場師一代(22)貧窮の中での図書館通い」乞うご期待!

たなぶ

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