【相場師の幸福論】ジェシー・リバモアと山崎種二に見る、投資の手法とお金の使い方

ジェシー・リバモア

こんにちは、たなぶです。
今日は視点を変えて、相場師の人間としての幸福についてです。
我が師匠山崎種二と、一世を風靡したアメリカの戦前相場師ジェシー・リバモアの人間としての幸せを考えてみたいと思います。
今日のお題はこちら。

1、山崎種二とリバモアの人生要約
2、お金と幸せと社会とのつながり
3、お金と幸福について

山崎種二とリバモアの人生要約

山崎種二は明治26年(1893年12月8日)生まれで貧しい農民からのし上がり、米相場で儲けてその後、商品や株で巨万の富を作った日本を代表する相場師だ。
その儲けた金で事業も多くやっており、肩書としては

山種証券社長
山種米穀社長
辰巳倉庫社長
学校法人山崎学園理事長
財団法人山種美術館理事長
東京穀物商品取引所初代理事長

と事業家としても成功している。
また、妻りんとの間に3男2女を授かり(長男は夭折)、次男富治は日本青年会議所会頭や山種証券(現SMBC日興証券)社長、財団法人山種美術館理事長も務めて、種二の事業の継承者となった。

さらに種二は国からも勲章ももらっている。
従三位
勲二等旭日重光章
勲二等瑞宝章
藍綬褒章
紺綬褒章

まさに、日本を代表する相場師で事業家だ。

一方、ジェシー・リバモアも貧しい移民の子からの出発で、この点は種二と同じだ。
農業を継がせようとした父に反発して家を14歳で飛び出してボストンで株仲買店の小僧になり、ここで株価の黒板書きの仕事をしながら相場について学ぶ。
15歳のとき年上の同僚から差金決済取引の原型となるバケット・ショップに誘われて3ドル12セントを儲けたのが相場師ジェシー・リバモアのスタートとなる。
無鉄砲な少年相場師(boy plunger)といわれるほどの快進撃をしたリバモアは、気を大きくしたのか1897年、 ニューヨーク証券取引所に発注する実際の株取引を開始するが、6ヶ月足らずで破産する。バケット・ショップでは注文が店頭で即刻執行されるのに対し、当時は電信を使っていたためにタイムラグがある本物の株取引の違いだったと後に本人が述べている。

それでも何とかニューヨークの相場に合わせて復活し、1900年10月、ネティ・ジョーダンと結婚する。その翌年には強気の大相場に乗り大勝し、現在価値で20億円もの資産をつくる。
しかし1906年にその利益で空売りを大きく張ったが読み違えて5月には2度目の破産となる。
妻のネティに「プレゼントした宝石類を質にいれて、その資金で相場をやらせてくれ」と頼んだが断られてその後離婚となる。

だが1907年には再び相場で復活して200億円もの資産をつくる。
ここでやめておけばと思う所ではあるが、この金でコットン相場に手を出して買い占めに失敗。
債権者を集めて「相場で復活したら必ず負債は返す!」と約束して債権者の納得を得て、1915年2月18日に破産が受理される。
不思議なもので破産をすると彼の相場は再び勢いづく。
そして2年後の1917年には約束通り、負債を完済するのだ。
そしてこの年、ショー・ガールだったドロシー・ウェントと再婚、彼女との間に二人の子供を授かることになる。

1929年10月24日の暗黒の木曜日から始まる相場崩壊の中で空売りをして巨大な利益を出しており、さらに売りポジションを増やして売りを続けるところだった。
だが、JPモルガンらの銀行家から「これ以上の売りはやめてくれ」との懇願を受け入れて、空売りの買戻しと下がった株の全力買いを行い、相場は一時的な戻り局面となった。
銀行家たちは感謝し「グレート・ベア」と敬意をもって呼ばれるようになる。
この売りと買いで取ったリバモアの利益は、1億ドル、現在価値で4,000億円以上といわれている。もうこれだけあればいいじゃないかと思いがちだが、彼はこの後も相場を続ける。


リバモアは1億ドルの勝利で自分に相当の自信をもってしまった。
人間としての謙虚さも失われる
1932年には彼の不倫で妻ドロシーとも離婚。
離婚後しばらくしてハリエット・メッツ・ノーブルと出会い、1933年3月28日に結婚する。
しかし、ハリエットの結婚は4度目であり、彼女の前夫たちはすべて自殺しているという曰くつきの女だった。
そして1934年3月5日、4度目の破産をする。
これは世界大恐慌後の1934年に米国証券取引委員会 (SEC)が設立され、これまで彼が得意としていた莫大な資金力に物を言わせる手法やショート(空売り)に対する新しい規制が導入されました。これにより、従来の彼のプレイスタイルが通用しなくなったからともいわれています。
リバモアは過度なレバレッジを繰り返して、思惑を外して250万ドルもの負債を抱えるほどになってしまったのだ。
そして彼はうつ病になる。

1940年11月28日、ニューヨークのホテルの一室で「どうしようもない。事態は悪くなるばかりだ。私は戦うのに疲れた。もう続けていけない。私にはこれしか方法がない。私は君の愛には値しない。私は失敗者だ。本当にすまないが私にはこれしか方法がないのだ」と書かれた遺書を妻に残し、ピストル自殺を遂げている。享年63歳。

お金と幸せと社会とのつながり

山崎種二とリバモアの二人は、相場師としての魅力についてはどちらもふんだんにあるものの、人生を幸せに生きたのは山崎種二だったように思う。
二人の相場手法も、売りを使ったところは似ている。
「売りの山種」と言われた山崎種二と「グレート・ベア」と呼ばれたリバモア。
だが細かく見れば、種二の手法は現物を持っての先物のさや取りや現物株を持ってのツナギ売りという手堅い手法だった。
それに比べてリバモアはレバレッジを利かしポジションを積み増すピラミッディングという手法だ。うまくいけば巨大な利益にもなるが、失敗すれば破綻が待っている。
リバモアは相場分析も行うアナリストとしても優秀だったのでこの手法が使えたのだろうが、それでもすべての相場を読み切ることは出来ず、何度も破産している。
だが、一度で4,000億円以上の利益をだすというのは山崎種二にはできない芸当だったろう。
二人の違いは儲けたお金の使い方にもある。
山崎種二は事業に金を投じた。リバモアは儲けた金でさらに相場を張った。
種二としては「胴元の有利さ」を知った上での起業だったのだろうが、それでも多くの社員や取引先を抱え、上場企業の社長や協会の理事長などともなれば、多くの人間との関りもあるし、尊敬も受ける。
リバモアからは、そうした社会性はあまり感じられないように見える。富こそが人の尊敬を受けるものと信じていたのかもしれない。離婚も何度もしており、家庭の平和はあまりなかったようだ。
やはりいくらお金があっても幸せになるとは限らない事がリバモアからは感じられる。
お金がないことは確かに不自由で不幸に陥りやすい。
しかし、お金があること自体が必ずしも幸福とは繋がっていないことをリバモアは教えてくれる。

お金と幸福について

まとめになるが、私たちは何故お金が欲しいのだろう。
「家が欲しい、車が欲しい、時計や服、ゲームに旅行、美味しいもの」などお金は一見万能だ。
しかし、お金だけでは人は幸せにはなれない。
①家族や親しい人たちとの親密な関係は、心の安寧には必須だと思う。
②人間は社会性のある生き物だ。人と関わり尊敬されたときに幸せを感じるのではないだろうか。そのためにはやはり、社会に貢献する仕事や立場が必要ではないだろうか。
③選択の自由は大事だ。いやな人間と付き合いたくない、いやなことはしなくていい、時間を自分でコントロールできる。これらの選択の自由は幸せの根幹だと思う。

①②③をなすためには、やはりお金が必要だ。
多くの人は会社で遅くまで働き、いやな上司の理不尽な命令や過酷な肉体労働の中で生活している。それは生きるのにお金が必要だからだ。
日本でお金持ちになる方法は少ない。
税金や社会保険なども高収入者に罰則とも思える制度となっている。
日本は世界で最も成功した社会主義国などと揶揄されるのもこのためだ。
そんな中で日本で金持ちになる方法は2つしかない。
事業で成功するか、投資で成功するかだ。
だれもが事業で成功するのは難しい。
投資が簡単とは決して言わないが、給料をもらいながらできるので最悪生活は破綻しない。
さまざまな相場師の記事をこのブログに書くのは、「お金を相場で増やす」という「技術」に注目してほしいからだ。
山崎種二とジェシー・リバモアという二人の人生から、是非何かを学んでほしい。
そして少額でもいい、証券会社に口座を作って投資を始めてみてはどうだろう。
投資そのものが幸福を与えてくれるわけではない。しかし、将来の選択肢を増やすための手段にはなる。

たなぶ

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