是川銀蔵・相場師一代(26)・・・是川経済研究所

是川銀蔵

銀蔵は昭和経済研究所という名前から、「是川経済研究所」という名前に変更した。中身もこれまでのよくわからない取り巻きの会から、実際に経済のわかる人材育成を目的にすえ、研究員の採用には筆記や面接試験を行い、20代の若い人材のを新聞などの人材求人広告を出して求めた。銀蔵の弟子・研究員は最盛期で50人にもなった。特に銀蔵は人柄を大事にしたという。「優秀でも性格が偏っていると何もできない」という事で人柄重視の採用をしたと銀蔵は著書で書いている。

普段は研究テーマを与えてそれぞれ自由に研究させ、毎週土曜日の午後に全員を集めて経済の勉強の仕方を銀蔵が講義をしたという。その時折の新聞を騒がせている政治経済をテーマに講義をした。政治経済に関する正しい判断ができる人材を育てるのが目的なのだ。弟子のひとりに西垣という男がいた。彼は関西大学の夜学に通っていた学生だったが、ある日関西大学の教授の古川博士が銀蔵を訪ねて来た。そして西垣を褒めちぎるのだ。「彼の答案は素晴らしく自分にも書けないような出来だったので、どのような勉強をしているのだと聞いたら是川銀蔵先生に教わっていると聞き伺いました」といった。

銀蔵は弟子を褒められ嬉しかったが、「私も是川先生の講義を受けたい」といったのにはたまげた。「そりゃあかん、あんた有名大学の教授やないか、礼を失する。」といって銀蔵は断ったが「いや、そんなこといわず。。。」とくいさがり、この古川博士は勝手に銀蔵の講義を聞きに来るようになった。だけでなく、なんと「うちの大学にも月1,2回でいいので講義に来てほしい」といわれたのには銀蔵も困った。しかし、この古川博士のしつこさに負け、最終学歴小学校の銀蔵が大学で教鞭をとることになったが、学生の質問は多岐にわたり銀蔵も色々調べて資料も作らなければならない。本業がおろそかになるので5回で大学教鞭は終わりにしたそうだ。

銀蔵は将来政治家になるとこのころ考えていたそうで、弟子たちに「お前たちはその時は政治資金を担ってくれ!」と言っていたという。本気かどうか、銀蔵のユーモアなのか、文章からはそこまではわからなかった。こうして相場師としても研究所の所長としても成功を収めつつあった銀蔵に、アメリカの金本位制度脱退という時代の変化が迫っていた。次回「是川銀蔵・相場師一代(27)・・・アメリカの金本位制停止を読む」乞うご期待!

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