是川銀蔵・・・相場師一代(1)小僧から中国へ

是川銀蔵

是川銀蔵は93歳という高齢で、自伝「相場師一代」を書いている。自分の事を書くつもりは全くなかったという彼が自伝を書いたのは、あまりに自分についての嘘が出回っていたからだそうだ。

「大正三年(1914年)六月、私は大連港に降り立った」から本編は始まる。銀蔵は神戸の高等小学校を卒業するとすぐに、14歳で神戸の貿易商、好本商会に奉公に出た。好本商会は主にイギリスから毛織物を輸入し、日本から手芸品を輸出する商いをしていた。

銀蔵は朝6時から店内の掃除や玄関の水打ちなどし、先輩社員がお得様を回るときの荷物運びなどの「労役」や、先輩社員からのお茶やらたばこやらの雑用で1日を忙しく過ごしたとある。「今は下働きの小僧だが、いつか必ず天下に大号令を出してやる」と当時朝日新聞に連載されていた「豊臣秀吉」に影響された銀蔵は思っていたそうだ。

勉強熱心だった銀蔵は、仕事が終わるとソロバン、簿記、会計、経済などの勉強を深夜まで頑張っていた。しかし、突然好本商会は倒産する。彼は再就職ではなく、自分で商売をすることを考えた。

好本商会の先輩で小西という人間がおり、銀蔵は彼の生き方に感化されていた。というのも小西は独学で英語を勉強し、イギリスで働きたいと考えていた。だが、渡航費などない。今のように簡単に行ける時代ではない。

そこで日本郵船の船内作業員に雇ってもらい、欧州航路でイギリスまで行き、そこで行方をくらました。ロンドンで昼は働き、夜間大学も卒業した小西は、たまたまロンドンに来てい好本商会社長がスカウト、ロンドン支店の開業を任せたという話があったからだ。

そこで銀蔵は船ではなく、シベリア鉄道を使ってヨーロッパまで行こうと考えたのだ。反対する両親や兄弟を押し切り、銀蔵は奉公時代に貯めた20円旅費にしてシベリア鉄道にのるために、中国大連までやってきたのだ。

しかし、ヨーロッパは遠かった。大連までの旅費で12円が消えていたからだ。大連で銀蔵はどうしたのか。それはまた次回!

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