本間宗久・・・生い立ち

本間宗久

本間宗久は1724年出羽庄内(現在の山形県酒田市)に酒田の富豪「新潟屋」の本間久四郎光本の三男として生まれた。本名は久作。久作は16歳の時、新将軍8代徳川吉宗の江戸城入りを見物する為に江戸に行っている。その江戸で何を学んできたのか、酒田に帰ると父に「米投機」をやりたいと言い出すが、父光本は「商いの正道ではない」と言って取り合わなかった。


父が亡くなると新潟屋は兄・光寿が店を継ぐが健康上の理由で隠居する。長男・光丘は幼く光寿は修行の為、光丘を播州姫路の「奈良屋」へ手代奉公に行かせ、久作を仮の店主にする。ここで久作は、店の金を使える事をいいことに米相場にのめりこんでいく。


そしてここで久作は相場の才能を一気に開花させ、店の身代を数万両単位で増やしたと言われている。時代を謳歌した久作だったが、彼の時代は長くは続かなかった。奉公を終えた長男の息子で甥の光丘が帰って来たのだ。店主の座は光丘に変わった。


そして、「まともな商売」をしようとする光丘と久作は対立し、久作は店を追放されてしまう。光丘は久作の相場で稼いだ金を全て地元の公共事業に寄付してしまう。あぶく銭はいらないという、彼の商売人としての姿勢だったろうし。久作の稼いだ金を奪ったとも言われたくなかったのだろう。


さて久作だが、彼は江戸に向かう。江戸で一旗揚げてやる!と意気込んだのだが、残念ながら江戸では儲けられず、久作は破産の憂き目を見る事になる。一旦、地元酒田に帰る久作だったが、このままでは終われない。


彼は江戸よりさらに大きな米市場のある大阪に向かう。ここで彼は相場で大成功するのだ。「出羽の天狗」と言われ、相場師としての栄光を手に入れる。だが、彼の心は縁を切られた地元の新潟屋にあった。相場成功で得た資金を持ち、酒田で商売を始めるが、なかなか新潟屋久丘には認めてもらえない。


50歳で久作は「宗久」に改名し、江戸に再度進出。今度は相場で大成功を収める。江戸での成功を見て、久丘も考えを変えたのか、とうとう甥・叔父の関係は修復した。宗久は新潟屋とも連携しながら、大名への米の貸し付けで莫大な富を積み上げたと言われている。


本間宗久と言えば、ロウソク足を作った人としても有名だ。彼はどんな相場を行っていたのだろうか。彼の著書と言われる「本間宗久相場三昧伝」は八十九章もあり、少しずつ紹介していきたい。


たなぶ

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