昭和19年7月に東条内閣がいよいよ敗戦濃厚の中で総辞職し、小磯内閣が誕生した。大命降下の後、小磯も組閣しなくてはならない。小磯はすぐに人を送り、銀蔵に入閣するよう要請したが、銀蔵は即座に断ったという。理由がある。銀蔵は小磯に次の首相指名が来るのを読み、小磯にアドバイスをしている。「オヤジ、この首班指名は受けちゃあダメだ。悪いがもうオヤジのような年寄の出る番じゃない。若い者に任せるべきだ。」銀蔵はそう言っておいたのだ。だが、小磯は首班指名を受けてしまう。(やはり権力の座が鼻先に来ると、どんな人間も食いついてしますのか。。。)銀蔵は残念でならなかった。
しかし、小磯國昭にしてみれば当時は神として存在していた天皇陛下に首相に指名されたのだ、やらないわけにはいかない。当然経済問題で優秀なブレーンが欲しい。これまで朝鮮総督時代に腹心として働いてくれた銀蔵に声を掛けないわけにいかなかった。勿論、長い付き合いであり(是川は受けないだろうな・・・)と分かってはいたが声を掛けないのも義理を欠くと思い、人を送ったのだ。断られるのは想定内だったろう。だが、本音では銀蔵に手伝って欲しかった。日本の敗戦は刻一刻と近づいてきていたのだから。
銀蔵は銀蔵で、入閣依頼を断ったのは首班指名を受けないようにアドバイスしたのを無視して首相になった小磯に、当てつけの為に断っただけではなかった。著書の中で銀蔵は「いくら小磯さんと自分の仲とは言え、官選で大臣職を受けるのが嫌だった。大臣になるならちゃんと選挙に出て当選し、周りの納得する形で大臣になりたいと考えていた」と言っている。そして、なんと実際銀蔵は次回の総選挙に出馬する準備を始めていたのだ。本人も絶対の自信はあった。といっているがこの選挙は、投票日が昭和20年の10月になっており、終戦を迎えた日本にその選挙が行われることもなかった。
銀蔵は是川銀蔵経済研究所を作ったのも、政治に出るための準備だったといっている。弟子たちに政治資金を任せるつもりだったとも、著書の中で銀蔵はいっているので、相当前から国政進出を考えていたのだ。是川銀蔵といえば「相場師」としてしかイメージはないが、経済人、そして政治家としての銀蔵も面白かったのだろう。状況を分析し、未来を予測して行動する。経済人としても、政治家としても、相場師としても優秀な人間の共通点なのかもしれない。
銀蔵と小磯総理との関係は、このような事があっても不思議と続いていた。そして多忙なはずの一国の総理である小磯総理が、銀蔵の次女の婿探しもおこなうのである。次回「是川銀蔵・相場師一代(34)・・・次女の婿探し」乞う御期待!
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