銀蔵は是川経済研究所で株の売買指導をしていたが、「列強は戦争準備に余念がない、応戦体制をすぐに整えなければならない時に、株の売買指導なんて下らん!」そう考えて、なんと朝鮮に渡って鉄山開発をやろうと思い立ったのである。是川経済研究所の所員には、「お前達もみんな一緒に朝鮮についてこい。ワシと一緒になって働いてくれ」といったが、当時50名の所員のうちついていくといったのは十数人だったそうだ。株の売買から鉄山開発なんて、しかも外国である。ついていく方が物好きというものだ。ついていけないのもわかる。
銀蔵は行けないものは全員就職の世話をしてやり、是川経済研究所を閉鎖した。そして全財産の百万円で是川鉱業を設立して挑戦に渡るのである。三菱鉱業から技術者3名を派遣してもらい、開発をスタートした。銀蔵といえども鉱山開発は素人であるので、朝鮮総督府の地質研究所へ毎日のように通って地質学、鉱床学を独学で勉強した。そして暇さあれば朝鮮半島各地の地質調査に走り回ったのだ。
是川鉱業の最初の開発は、朝鮮江原道横城郡安興面の井谷金山の開発だった。この金山開発は後に金山開発での住友金属鉱山の仕手戦で役に立つことになるがそれは後の話。昭和14年秋には三和鉄山を開発、また三和鉄山近くの東洋拓殖会社所有の鉱区も譲渡を受ける。そして昭和16年から無煙炭を使用した小型溶鉱炉による製鉄の研究をスタートした。翌年には国策会社への資金援助を受けて、2700万円を借り自己資金300間年を入れて3000万円を資本金とした是川製鉄株式会社を設立した。
是川製鉄は37万坪の敷地に20トンの小型溶鉱炉10基を建設し、従業員は3000人、下請け会社を入れると1万人にもおよぶ朝鮮有数の大会社になっていた。さらに北朝開発興業の再建も銀蔵は委託され、3つの会社を経営することになる。一相場師から朝鮮有数の大会社のドンになったのである。
銀蔵にこれだけの融資などを行ったのも、協力者がいたからである。それは小磯国昭朝鮮総督のバックアップがあったからだった。次回「是川銀蔵・相場師一代(32)・・・小磯朝鮮総督の知恵袋」乞うご期待!
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